ウォーゲームのコンテキスト

このエントリーは、Board Game Design Advent Calendar 2015 の24日目です。

要旨

本エントリーは、ウォーゲームとユーロゲームで、それらが持つ性質の相違点を説明するために書かれました。概論を越えるものではありません。それぞれのゲームジャンルにおいて、例外的な事柄は省いた上で、一般的な傾向の違いを総別し、簡潔に解説することを優先しました。

対象となる読者は、ふだんは主にユーロゲームをプレイし、ウォーゲームのプレイ経験が浅いか、あるいは無い日本人ゲーマーを想定しています。

前提

ここでの「ウォーゲーム」とは、ある軍事的な歴史的事実(史実)を主題にして、それをモデリングした環境下において再現させることを意図し、ホビー用として商業的に制作されたボードゲームを指します。

戦争自体の描写を意図しない抽象的なゲーム(将棋やチェスなど)や、軍事的設定がフレーバーとしてだけ置かれているゲーム(リスクやディプロマシーなど)は、ここには含まれません。

緒言

ユーロゲームの文脈でウォーゲームを理解することは、誤解を生みやすいので注意が必要です。たとえば、ユーロゲームの重量級を好むゲーマーが、その興味の対象を広げてウォーゲームに触手を伸ばし、実物を手にして困惑する様子をしばしば見かけます。

ウォーゲームは、大量のコマ・大きなゲームボード(マップ)・分厚いルールブックなど、その外見だけを眺めるなら重量級ユーロゲームの延長線上にあるように思えます。しかし、それは正しくありません。

ウォーゲームとユーロゲームは、いずれも「ゲーム」であることは共通しています。これは強く指摘しておきますが、両者は決して排他的ではありません。しかしながら親和性もありません。

なぜなら、これらは向いている方角は同じでも出発点が異なっているためです。どちらかがどちらかへ歩み寄らない限り、交わることはありません。どちらのジャンルの前にも後ろにも、その先に他方は存在していません。


◆相違点:動機

ウォーゲームは主題となる史実がゲームシステムの上に立ちます。この場合、史実とは戦争を指します。ウォーゲームでは、戦争をボードゲームとして描写するための道具としてゲームシステムが用いられます。

解説:
ユーロゲームとウォーゲームとでは、デザインの発端が異なっています。ユーロゲームはゲームシステムがデザインの出発点となります。ゲームシステムが主であり、テーマはそれを際立たせるための手段となります。

一方ウォーゲームは、これらが逆の位置にあります。デザインの目的は戦争の再現シミュレートです。そして、それを成し遂げる手段としてゲームシステムを用います。したがってゲームシステムは史実に結びつけられていますし、またそうでなければなりません。

◆相違点:表現

ウォーゲームは、戦争を叙述する表現の一形態です。ゲームデザイナーによって、そのゲームの主題となっている戦争に対し、特定の視点が設定され、解釈され、省略され、強調され、抽象化され、意味づけされ、ゲームとしてプレイ可能な方法で表現されます。デザイナーがゲームによって表現しようとしている戦争は、そのゲームのようになっています。

解説:
映像や文章など、史実を描出して作品を作り上げる方法はいくつもあります。いずれの手段を用いても、史実のすべてを扱うことは不可能です。史実の一部を切り取って作者が再構成することで作品は成立します。これはウォーゲームも同様です。ウォーゲームのデザインは、歴史的な小説を創作することにしばしば喩えられます。

デザイナーは、ゲームの主題となる情景の局面を、歴史的背景に基づいた枠組みで創作し、そこで遂行すべき目的を指標としてプレイヤーへ提示します。この舞台装置は現実に基づいて体系的で細密に造成されるため、ウォーゲームのルールは(ユーロゲーマーの感覚として)膨大な分量になります。

◆相違点:照合

ウォーゲームでは、ゲームが面白くなるアイデアが取り入れられていたとしても、それが史実の何を反映した結果なのかが明確になっていなければなりません。これが不明であったり、不正確であったりしたならば、それは作品の欠陥としてさえみなされます。

解説:
ユーロゲームでは、ゲームシステムとテーマがかけ離れていたとしても、それをとがめられることはあっても欠陥とまでは見なされません。基本ルールから外れた特別な効果を持つ要素があり、それがどれだけ現実離れしていようとも、ゲームの中で整合性がとれているのであれば、それはゲームを構成する仕組みの一部として解釈されるために問題とはなりません。

一方ウォーゲームは、ゲーム全体でも個々のルールでも、それらはすべて現実の客観的な事実に基礎づけられます。ゲームの構造や要素の規定は、現実が反映されている度合いによって、その妥当性が評価されます。

例えば、他より速い速度で移動するコマがあったのなら、それはデータに裏付けているからなのか、一般常識として自明であるのか、あるいは何かに着眼してそのように解釈したのかなど、現実の戦争の中でそのコマに相当する要素に照らし合わせ、そのようにした理由をデザイナーが説明できなければなりません。

◆相違点:視点

ウォーゲームでプレイヤーは、戦場に展開する複数の部隊を指揮する立場に置かれます。プレイヤーは、受け持つ指揮範囲の広さや抽象化の水準で、一般に「戦略」「作戦」「戦術」に分類されるレベルの指揮を受け持ちます。プレイヤーは、指揮レベルに応じた視点から命令を下し、結果も同様に指揮レベルに応じて提示されます。

解説:
戦場では多くの戦闘が発生します。将棋やチェスとは異なり、ウォーゲームでは、指揮官が命令を下した攻撃が必ず成功するとは限りません。個々の戦闘において、攻撃側の戦力の方が大きければ、その攻撃が成功する見込みが高まりますし、小さいと攻撃側が損害を被ることもあります。

ウォーゲームでは、個々の戦闘に参加している各部隊が置かれた状況に応じて前処理を行った上で、最終的にサイコロなど乱数を用いて戦闘結果を求めます。これは、その戦闘が現実に発生した状況において、そこで起こりうる結果の可能性がひとつではないことを抽象的に、しかし現実的に表現するために用いられる方式です。

現実がそうであるように、指揮官の意思決定によって導かれるのは個々の戦闘が実施されることまでで、その結果は指揮官の努力範囲外に置かれる不確定要素となります。指揮官の視点から見た戦闘はいわばイベントであり、個々のイベントが乱数によって結果が出されるのは、そのような意味合いがあります。

戦闘結果には乱数が入り込みますが、ある程度はプレイヤーの制御可能な範囲にあります(例:攻撃側の戦力が大きければ戦闘で勝利する確率が高まる、等)。そしてその結果は、次の意思決定の検討材料として引き継がれていきます。

このようにウォーゲームは、プレイヤーに設定されている指揮レベルにおいて、その意思決定の連鎖が戦域全体に波及していく様相をシミュレートするモデルとして機能します。

◆相違点:勝利

ウォーゲームの結果は、史実に近いものとなりやすくなっています。史実で勝利した陣営と同じ方針を用いることはゲームでも可能であり、また有効です。

解説:
ウォーゲームの主題となっている戦争は、たいていはすでに終わっています。したがって史料をひも解けば、その当事者たちの狙いや戦いのすべての過程を、その結果を含めてプレイヤーは事前に知ることができます。

ウォーゲームの勝利条件は、それらを元に設定されていますので、史料は有力な攻略法か悪例の見本として役立ちます。このように、デザイナーによって作られたゲーム環境の中で各プレイヤーが勝利を追う行動が、現実でも合理的な判断となるような導線となっていることは、ウォーゲームデザインにおいては理想のひとつとされます。

現実の戦争は、参戦している各陣営の状況が異なる非対称の戦いとなるため、戦いの始まる前からどの陣営にも等しく勝利の可能性があることはむしろ不自然です。そのため、攻勢と守勢(あるいは劣勢)が初めから終わりまで変わらないウォーゲームも珍しくありません。

補足:競技性を高めるため、絶対的な戦果ではなく、史実を指標としてゲーム結果と比較する形で勝利条件を設定しているゲームもよくあります。例えば、史実において劣勢の陣営が、ゲーム終了時に実戦よりも少ない損失であったならば、(最終的な盤面の状況はともかくとして)ゲームとしてはそれを「勝利」とみなす、というような判定方法です。


結論

ウォーゲームは(ユーロゲームで言うところの)テーマが主体となったゲームです。ゲームである以上、ルールは文章や図などで説明されていますので、それを読めばプレイできます。しかし、ウォーゲームのルールやデータは、ゲームを運用するためだけではなく、大部分はそのゲームのテーマを再現(シミュレート)するために用いられます。テーマは現実であり、それがゲームに投影されているのです。

したがってテーマに関する知見があるか、あるいは少なくともそれに興味が持てそうかということが、そのウォーゲームをプレイするモチベーションとなります。そのどちらも無いのであれば、ユーロゲーマーがそのウォーゲームをあえてプレイする理由はありません。

後序

以下は、とあるウォーゲームのルールブックに記載された一節からの引用です。

3.1d 輸送ユニット 輸送ユニットは、兵員や兵器の輸送を主目的とするトラック、
ハーフトラック等の非戦闘車輌を表します。
引用:TCSシリーズルールv4.01 / Copyright - Multi-Man Publishing, Inc. / サンセットゲームズ

さて、あなたはここで「ハーフトラック」とは何だろうと思うかもしれません。このゲームのルールブックには、このハーフトラックをゲームでどのように使うかの記述はあります。しかし、ハーフトラック自体については「輸送に用いる」という以上の説明がありません。

もちろん、あなたがハーフトラックをどんなものか知っているならそれで問題ありません。知らない場合でもルールは規定されているのでゲームはプレイできます。

ゲームによっては、兵器や軍事用語、あるいは歴史的背景についての資料が添付されていることもあり、そこで説明されることもあります。それらが無かったのなら、自分で調べることになります。

どのような方法であれ、あなたはいずれハーフトラックを知ることになるでしょう。ハーフトラックが実際の戦場でどのように運用されているかを知ることは、このゲームのルールを理解する上でも、プレイ上の作戦を考える上でも役立ちます。こういうわけで、現実とゲームはリンクしました。

以上のように、ある歴史的な戦いをより分析的に知りたいと望むのであれば、その戦いをテーマにしたウォーゲームをプレイすることは価値のある手段のひとつとなり得ます(了)。


メイソウ・・古参ウォーシミュレーションゲーマーさんへの10電圧

ここから先はアドベントカレンダーとは無関係な余談であり、蛇足である。それと、この項の見出しはネタである。わかるやつだけわかればいい、という含みは持たせたが、何にせよ大した意味はない。

このエントリーを書くにあたり、いくつかの資料や書籍を参考に読んだ。月刊タクテクス誌(創刊号〜第23号)の巻頭に掲載されていた記事は、その中のひとつである。これを久しぶりに読み直してみたところ、今さらながら気がついたことが多々あった。何もかも考え合わせてみるとこれらは、社会的に微妙だった当時のウォーゲームが置かれた境遇と、そのウォーゲームを新しい商材として売り込みたい出版社の立場とが、それぞれ色濃く反映された謳い文句の集大成だったといえよう。オトナの事情ってやつだ。

例えば「ゲームの世界でしか通用しない名作戦は、ここではルールの欠陥としかみなされません」という煽り文句が早くも第2号に現れる。これは当時の基本図書のひとつ「ウォーゲームハンドブック」に限ってみたとしても、ダニガンはホビー向けウォーゲーム固有のゲームテクニックについて多くのページを割いて書いているし、別にそれを避けていない。だからこれは、70年代の国内アーリーアダプターたちによって執拗に喧伝されたあの意見に引っ張られた執筆者のウォーゲーム観に過ぎないとさえ言える。

「シミュレーションをするのに、ゲームという方法を用いたものである」は第22号からだが、これも今ではずいぶんと古めかしいスタンスに成り果てた。もはや市場はそれを重視していない。90年代の半ばから起こったカードドリブンシステムの隆盛は、市場がウォーゲームに歴史的な再現性(シミュレーション)ではなく、物語性(ナラティブ)を強く求めていることが明白となった一例である。

カードのフレーバーテキストや装飾的なイラスト・写真を多用することで、ウォーゲームがそれまで伝統的に活用し続けてきた象徴や符号によるメタファーや、プレイヤーの指揮や意志決定のレベル(ポイント・オブ・ビュー)の概念はあっさりと放棄された。そしてその代わりに、歴史小説でよく描かれる、感傷的な戦場のメークドラマが直喩で導入されたわけだ。また、それらから想起される特殊効果をシステムのコアに組み入れることで、大量のカードを手際よくさばくゲーム的テクニックの追求をプレイヤーに促すことにもなった。

カードドリブンシステムが登場した初期には、爆発的なトレーディングカードゲームブームが重なったことも相まって、このアイデアは市場に対する訴求力が極めて高いものとなった。カードの製造費が上乗せされるために高額商品となるにも関わらず、現在でもけっこうな売れ筋となっているのはご存じの通りである。

今世紀になってメインストリームに出現したGMTのCOINシリーズに代表される、ユーロゲームとの中間的な作品群も、カードドリブンシステムとはやや事情は異なっているものの、歴史的な再現性を追求した結果として採用されたものではないことは明らかだ。ともあれ、これらはプレイしていて確かに楽しいし、いずれもビジネスとしてもだいぶ成功しているように見えるのだから、そのこと自体に是非も無い。

このように、80年代に書かれたタクテクス巻頭記事が、もはや時代にそぐわない内容となっていることは、あらためて言うまでもない。ただ未だに、この記事の文言を切り貼りしては金科玉条のごとく繰り返す「シミュレーションゲーム初心者向け」の記事を見かけたりするので、ひょっとして説得力は失せてはいないのかもしれない。それに、この記事を原体験として大切にしている人たちの感情はとてもよく理解できる。

そんなことをつらつらと思いながら再読を重ねていくうちに、この記事に書かれていた事柄を、表層的な意味をとらえなおし、再解釈すれば、私にも何かを書けそうな気がしてきた。少なくとも、重量級ゲームを好むユーロゲーマーたちに向けた看板に書き並べる注意書きの文言くらいにはなるだろうと考えた。それで十分だ。

書き進めていくうちに結局は自分の言説に変わってしまったし、大幅に文章を切り詰めることになったが、限られた時間の中で何とかまとめることはできたと思う。当然ながら、この再解釈には異論も出るだろう。もしそうなら、あなたの目の届く範囲にいる入門者に対しては、あなたの解釈と知識と言葉で説明して欲しい。私は私なりに、ウォーゲームの入り口に歩み寄ろうとしている若い人たちに向けた留意事項の叩き台を作った。

そう、ウォーゲームの文脈は確かに変わったのだ。だが、因習は生きながらえている。だから私は、この文を書いた。