あの夏、僕らはへんぴな田舎にいた。近くに有名な山があったはずだが、その詳しい場所どころか、その山の姿形すらもう覚えていない。なぜなら、僕らはその地にたどり着いてから丸3日間、合宿所のようなところにこもりきってゲームを遊び、ほとんど外を出歩かなかったからだ。
はっきり覚えているわけではないが、そこに持ち込んだゲームの数はさほど多くなかった気がする。そしてメインのゲームはたったひとつだけだった。その小さな箱の中には、僕らの要求を満たす全てが詰まっていた。実際にそうであったかはともかくとして、自分たちが思い描いた夢想が、そのゲームを遊ぶことできっとかなえられるはずだと、そこにいる誰もが無邪気に信じていた。
最初の1日で、そう、たった1日で僕らは、そのゲームを10時間近くも遊んだ。1回のゲームが終わるまでダラダラと3時間以上かかることがあったし、その結果はと言えば、偶然に引いたカードの強さと、人生の何かと引き換えに降臨するに違いないダイスの女神に見初められたやつが常に勝った。
でも僕らはゲームというのはそういうものだと思っていたし、何の疑問もなくまた同じゲームを同じメンバーで繰り返し夜中過ぎまで遊んだ。翌日も、そしてそのまた翌日も。楽しかった。
アメリカの有名なボードゲーム評価サイトでは、そのゲームにひどい点数がたくさんつけられ、コメントは荒れ果てている。もちろん彼らは何にもわかっちゃいない。あの夏の日の僕たちの高揚を、カードがすり切れるまで没頭した興奮を、ひたすら勝利だけを追い続けた心地よい焦燥を。あのゲームに3.5なんてつけるやつは、きっと自分の家族や友だちですらデジタルな評価をしなければ気が済まない連中に違いないのだ。
改めて書くまでもないことだが、今となってはあの「思い出のゲーム」を僕は遊んだりはしない。これからそう長くもない残り人生の中で、わざわざそれを棚の奥から引っぱり出すことだってまず無いだろう。どんなに強く願いを込めたところで、あの暑い夏の太陽が再び僕たちに降り注ぐことはない。
あの仲間たちはその後、ひとりは亡くなって、ひとりは実家の商売を継ぎ、残りのひとりは音信不通だが政治の世界に入ったらしいと風の便りで聞いた。わずか二十数年前のことが、まるで歴史の教科書に書かれた出来事のように、うすぼんやりと灯明のように僕の頭の片隅でセピア色に瞬いて、今でもこうして時々は思い出したりしている。
コメント